<アメリカ西海岸便り>
日本の古き習慣を継承するアメリカの日系人社会
11月にロサンジェルスで開かれたジャパンエキスポに立ち寄った。日本とは無関係の、モノを売るのが目的の出展もたくさんあり、文化的催しを楽しみにしていたアメリカ人の友人たちはガッカリしていた。私はクリスマスプレゼントになりそうなものを物色するのが目的だったので、その目的を果たし、また生まれて始めて長野県の名物「お焼き」なるものも食べられ、一応、満足だった。
私がプレゼントに買ったのは、「自分が日系アメリカ人であることを確かめる100の理由」が両面に書かれたユニークなTシャツだった。日系アメリカ人の友人に贈るためのものだ。
三世のジムと一緒に100の理由を読んだが、二世に関するものが多く、三世のジムにはピンと来ないものもあった。ハワイ出身の三世、ナタリーにも一枚送ったが、彼女は「これは、大陸の日系アメリカ人にあてはまる。ハワイは事情が違うから」という。
ハワイの場合、アジア系が大勢を占め、白人がマイノリティなので、同じ日系アメリカ人でも大陸の日系アメリカ人と経験が違うのだ。彼らは、戦争中、収容所に入れられることもなかった。
大陸の日系アメリカ人の間では、収容所での経験が、非常に強い連帯感を生んでいる。二世が集まれば、たいてい「どこの収容所にいた?」と聞きあうのだ。たとえば、先のTシャツの100の理由の100番目は、「マンザナ、ハートマウンテン...などがバケーションスポットでないことを知っている」というものだ。白人と結婚した自称二世半の友人が、マンザナの近くをドライブした際に、「夫は収容所のことなど全然知らなかった」と嘆いていた。
私は、南カリフォルニアに来て間もない頃、二世の夫婦(60代)と知り合い、日系アメリカ人の高齢者が集まるビンゴゲームや盆祭りによく連れて行かれた。太平洋戦争中に活躍した第100/442(日系人)部隊の同窓会にまで連れて行かれたこともある。
そういう集まりに行くと、たいてい二世のオバサンが、「うちには独身の息子がいるんだけど...」と私に息子を売り込みに来る。白人男性が標準の国では、アジア系男性が交際相手を見つけるのは大変なのだ。特に日系アメリカ人女性は、自民族以外の男性と結婚する率が、どの民族グループよりも高く、自民族の女性に見放された日系アメリカ人男性には、日本人女性に頼らざるを得ない人も少なくない。
二世の中には、日本語を話せる人も多く、私が日本から来たというと日本語を話したがる。しかし、彼らの日本語は、一世の両親たちから学んだもので、非常に古く(明治時代の日本語)、各地の方言が入っていて、理解できないものもある。たとえば、知り合いの二世のオバサンはアイロンのことを「ひのし」と呼んでいた。日本の母に聞いてみると、「ひゃー、なつかしい言葉やなー」と言っていた。現在、72歳の母ですら使わないような古い言葉なのだ。
そのオバサンは、お坊さんのことを「ぼんさん」とも呼んでいた。私が「まさか、お坊さんの前では“ぼんさん”とは言わないよね?」と聞くと、「言う」という。「さげすんだ言い方だよ」というと、「知らなかった...」という。「ぼんさん」が、「お坊さん」を意味する標準語なのだ。(「ぼんさん」は、関東で言えば「坊主」といったところか。アメリカに渡った一世は、九州や広島、和歌山など西日本の人が多いので、西日本の方言が残っている。)
三世になると、日本語を話せる人はほとんどいない。子供の頃、日本語学校に通わされた人は多いようだが、授業が土曜日にあるので、子供たちは行きたがらない。「テレビのマンガが見れないから、やめてしまった」とジムも言う。(しかし、彼らの多くは、大人になった今、日本語を習っておかなかったことを後悔している。)
言葉だけでなく、日本の古い習慣が日系アメリカ人の間で保たれていることがある。(彼らの日本の文化は、明治時代で止まっているのだ。) 日本から渡ってきた祖父が日本料理のレストランを営んでいたというジムは、祖父から受け継いだ秘伝の寿司酢を作るという。「うちの家では“すしの子”を使ってたけど」というと、「最近の若い日本人は...」と、ジムは同世代の私をなじるのだった。(うちの72才の母も“すしの子”を使うのだが...) 50代のナタリーは、毎年、お正月には、黒豆、煮しめ、きんぴら、なますなど、おせち料理をすべて自分で作るという。スーパーでおせちセットを買う現代の日本人など、彼らには信じられない存在なのだ。
有元美津世/N・O誌1998年3月号掲載 Copyright GloalLINK 1997-1998
Revised 5/1/98 アメリカ西海岸便りインデックスへ